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きしめんの発祥(4)

今日は「日本鹿子」の確認と、これまでに見てきたきしめんの歴史をまとめたいと思います。

 

今日のポイント

  1. 「日本鹿子」が芋川うどんについての重要な史料だとわかった。
  2. 「きしめん」「棊子麺」「ひもかわ」「芋川うどん」の歴史見解を整理した。
  3. 「きしめん」の歴史として総括した。
  4. 「名和干温飩」なるうどんを見つけたので追記した。

いつものように資料は最初の記事に追加しています。

「日本鹿子」

磯貝舟也 作、石川流宣 絵「日本鹿子」(にほんがのこ)を見てみます。

初版が1691(元禄4)年とされている書物です。

全国各地の国主や寺社の列挙のほか、街道沿いの主な村や名所、名物についての記載が見られ、次のような内容となっています。

  • 芋川というところにはうどんそば切りの名物を売る茶屋がある。
  • 芋川ウドンは道中一番の名物である。  

先に出版されている「東海道 名所記」の「池鯉鮒より鳴海まで二里半十二町」では見られなかった次の点を明確に記載しています。

  • 芋川の名物が(そば切りではなく)芋川ウドンであったこと。
  • うどんそば切りは茶屋で売られていたこと。

また、後に出版された「国花万葉記」では「池鯉鮒より鳴海へ二里半十二丁」の項と、参河国、尾張国の「同国中名物出書之部」の項に同一の内容が見られ、次の点が明確になります。

  • 「日本鹿子」は芋川温飩に関する内容を「国花万葉記」よりも6年早く出版している。
  • 「国花万葉記」は「繁花の地」という"花"の文字を含む言葉を用いて芋川温飩の評判を独自に表現している。ただしその評判を裏付ける事実は説明されていない。

これらのことから、「東海道 名所記」では芋川のうどんそば切りがそばを指していた可能性もある表現であったところを「日本鹿子」はうどんであることを明らかにしたもっとも古い書物となっていますので、芋川温飩にとっての重要な史料であることがわかります。

きしめんの歴史・そのまとめ

これまでに確認できた史料から、きしめんの歴史についての認識を、できるだけ正確に、できるだけわかりやすくまとめなおしてみたいと思います。

まずトピックごとにまとめ、最後に総括したいと思います。

 

●「きしめん」

平打ち麺を名古屋あたりできしめんと呼んでいることは1837(天保8)~1853(嘉永6)成立の「守貞漫稿」に書かれています。そして、1750(寛延3)年出版の料理本である「料理山海郷」には平打ち麺のきしめんをかけスタイルで食べるレシピで記録されています。

 

これらのことから、現在で言うきしめんは江戸時代の中頃、1750年ごろには書物に書かれるほど知られるところになっていたようですが、最初にきしめんを作った人物や店などに関する記録を見つけることはできず、きしめんの起源についてははっきりとしたことがわかりません。

 

 

●「棊子麺」

他方で、「碁子麺」「基子麺」「棊子麺」などときしめんと発音する漢字で表される物の記録があります。

1364-1367(貞治3-6)年ごろの「新札往来」をはじめとして1827(文政10)年「庭訓往来 諸妙大成扶翼」に至るまで、往来物と称される書物類の少なくとも9冊以上には食べ物類として単語が書き継がれています。また1763(宝暦13)年以降の成立である「貞丈雑記」 ではそのレシピが小麦粉を水とあわせて練り、薄くのばした生地を輪切りにした竹の筒で丸くくり抜き、ゆで上げたものにきなこを衣としてまぶして食べられていたものの、その頃にはあまり作られなくなっていたことが示されています。

 

結果として、江戸時代の中頃までに平たく丸いきなこをまぶして食べる「棊子麺」というものがあって、南北朝・室町時代から江戸時代の後期に渡る往来物にみられる「棊子麺」の記載は、現在の「きしめん」についての史料であるかどうかは確かではないようです。

 

 

●「ひもかわ」

ところで、1837(天保8)~1853(嘉永6)成立の「守貞漫稿」では平打ちのうどんを江戸で「ひもかわうどん」と呼び、名古屋ではきしめんと言っているとする内容がみられる他に、「ひもかわ」は「芋川」の訛だろうとして関連付ける意見を述べています。しかし、本当に呼び方が訛ったかどうかについての確かな経緯の記載は見られず、また芋川のうどんが平うどんであったことは引用したフィクション「好色一代男」の表現に含まれているだけで、実際はどうであったのかは記載はみられません。したがって「ひもかわ」のルーツが「芋川うどん」であるかどうかは確かではなく、つまり言葉が訛って呼び名が付いていると考えるくらいしか他にはっきりしたことがわからないというのが確かなところのようです。

 

なお、 1679(延宝7)年「冨士石」に書かれている唄には「ひ本可者温飩」といった単語の記載があるとされるなど、いもかわ、ひもかわ、いぼかわといった表記と共に、今岡村や後の今川村の場所を指して芋川と地図に書かれるなど、似た音が書物上で散在していることもひもかわにまつわる話の特徴となっています。

 

●「芋川うどん」

さて、きしめんとひもかわの引き合いに出される芋川のうどんですが、1691(元禄3)年「日本鹿子」によって芋川にはうどんそば切りを売る茶屋があり、芋川うどんが東海道でも良く知られる三河の名物になっていることが書かれています。

そして芋川の場所については1690(元禄3)年「東海道分間絵図」で今の愛知県刈谷市今川町の旧東海道沿いであったことが示されています。また当時の今川町はについては、1960(昭和35)年 「刈谷市誌」に見られ、「三河石高図」(1701, 元禄140)や「刈谷領往還絵図」(1780年ごろ・安永年間)によって泉田村地内の茶屋町であったことがわかります。

 

一方、「ひもかわ」が「芋川」の訛であることの裏付けが確かではないとすると、芋川うどんが平うどんであったことを明らかにしている史料は見あたらず、実は芋川うどんが平うどんであったかどうかでさえも確かなものではなくなります。

補足すると、井原西鶴によって書かれた1682(天和2) 年のフィクション「好色一代男」には、芋川の名物といって平うどんを売ることに慣れたという物語が描かれているのですが、これは平うどんの概念があったとしても、何が想像で何が事実かは確かではありません。

 

ところでまた、しばしば引用される1659(万治2)年「東海道 名所記」についても、うどんそば切りが名物であると記載するものなっており、惜しいことに名物がうどんであったことさえも明らかではありません。

 

これらのことから、1690年ごろに現在の愛知県刈谷市今川町にあたる泉田村の茶屋町が芋川と呼ばれることもあり、その町のうどんそば切りを売る茶屋で、東海道の名物と言われるほどの芋川うどんが提供されていたものの、そのうどんがどのようなものであったのか、またどのような味であったのかは確かではありません。

 

では、確認した史料については主なものを上に図で示し、総括したいと思います。

 

現在、きしめんといえば名古屋の名物として知られ、小麦粉と塩水で混ぜあわせて捏ね、幅4.5mm以上、厚さ2.0mm未満に成形した平打ち麺のことをいい、主に昆布や節類を水につけたり煮たりして旨味や風味を引き出し、溜まり醤油やみりん、塩などで調味したかけつゆと共にゆで上げた麺をどんぶりに入れたものをかけうどんのように食べます。あるいはまた、ゆであてた麺を水で洗ってざるに盛り、かえしを元にした濃い味のつけつゆにつけて、ざるそばのように食べるざるきしめんも見られます。

このようなレシピは中力粉と呼ぶ小麦粉を使う場合もあればそうでない場合もあり、また塩水を使う場合もあれば水だけの場合もあり、さらには生地を捏ねるのにビニールなどをかぶせて足で踏む場合もあれば製麺機を用いる場合もあり、さまざまな手法がとられています。また、製造する技術や情報、流通は日本全国に均一に広がっており各地できしめんを食べられるようになっています。

 

 

その歴史については、現在で言うきしめんは、最初にきしめんを作った人物や店などに関する記録を見つけることはできず、きしめんの起源についてははっきりとしたことがわからないものの、江戸時代の中頃、1750年ごろには書物「料理山海郷」に書かれるほど知られるところにはなっており、また1800年代の「守貞漫稿」によって、名古屋にきしめんがあることが伝えられています。

他方、三河国の名物となっていた芋川うどんが1690年ごろに現在の愛知県刈谷市今川町にあたる泉田村の茶屋町の茶屋で提供されていたことや、また平打ちのうどんを「ひもかわ」と呼んでいることについても「芋川」が訛ったとする説などの説明を伴うこともしばしばみられるようですが、それらと尾張国のきしめんとの関連は明確ではないようです。

 

追記 名和干温飩

岡田文園、野口梅居 (1844, 天保15). 「尾張名所図会」によると、知多郡の名和村では名和干温飩が名産であるとされています。

 

名和のあたりは広大な埋立地や湿地だったのではないか、と思うところですが、尾張・名古屋と三河・芋川のみならず、江戸時代の末期には旧東海道から外れた尾張・名和でも美味しいうどんを食べることができたようです。

どのようなおうどんだったのか、興味がわくところですね。

 


●岡田文園, 野口梅居 (1844, 天保15). 「尾張名所図会」 6, 前編 知多郡

  • 名和干温飩本しうどん
    『同村の名産也凡當郡の小麦粉精密にして最上さいじょうの極品なれば大野岩屋横須賀佐布里等の諸邑みな索麺そうめんを製して名産とす近年ここにて干温飩を精製し諸國へおびただしく運送す其製甚清浄潔白にして形状風味共にすぐれたり、波東坡が詩に一盂湯餅銀絲乱と作れるハ古れ等能たぐひを形容せし句尓て銀絲能二字さ奈がら是に的當の題詺ともいふべし』

変体仮名をひらがなに置き換え、一部の漢字を修整した文章を以下に記載します。

  • 名和干温飩(なわほしうどん)
    『同村の名産なり。およそ当郡の小麦粉精密にして、最上の極品なれば、大野、岩屋、横須賀、佐布里等の諸邑(町々)みな索麺を製して名産とす。近年ここにて干温飩を精製し、諸国へおびただしく運送す。その製、はなはだ清浄潔白にして、形状風味共に優れたり、かの東坡が詩に「一盂湯餅銀糸乱ル」と作れるは、これらのたぐいを形容せし句にて銀糸の二字さながら是に適当の題名ともいうべし。』

    ※1 同村→前頁で紹介されている名和村(なわむら)
    ※2 東坡→北宋の詩人の名
    ※3 「一盂湯餅銀糸乱ル」→「一鉢のうどん、銀の線乱る」