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きしめん - 鈴家

生麺の平うちのうどんを食べてみたい、ということでたどり着いたのが「きしめん」。

 

きしめんは愛知県の名物料理となっており、麺処で多くきしめんが提供されているため、名古屋の「鈴家」さんを訪ねてみました。

 

いただいたのは麺の特徴を味わう「天ざるきしめん」。

注文してからゆでたてで提供されたのがこちら。

無造作にざるに盛られたきしめんがやってきました。

 

麺の色は薄くクリーム色がかった白色で、一般的なうどんとは異なり一様に薄平たく、幅も1.5cmほどで一様に幅広いものとなっています。

頬張ると、噛んだ時に歯触りがあり、薄い麺を食べている食感を感じることができます。

 

メニューを見てみると、きしめん、煮込みうどん、そば(温・冷)と一品があります。

トッピング類は定番が並んでいるのですが、「志の田きしめん」が目に留まります。

聞くところによると「志の田」がつくメニューは名古屋周辺で見られるようです。

具は刻んだ油揚げ、長ネギ、かまぼこといったシンプルなトッピングによるかけうどん系のメニューなのだそう。興味深いものがありますね。

 

ところで、麺処といえば誰もがそのメニューにうどん・そばが並んでいることを知っています。

しかし、名古屋という街の麺処はそれにとどまらないものなのです。

書き連ねると、うどん・そば・中華そば・きしめん・味噌煮込みとカレー麺のメニューを提供し、また丼物との定食もカバー、さらには台湾まぜそばまで期待に応えてしまうお店なのです。驚愕しますよね。東と西の間で揉まれるうちに、海の向こうからアイデンティが生まれるのはまさに名古屋らしいなと思うところです。

 

かなり脱線しましたが、鈴家さんはきしめん、煮込みうどんとそばを軸とし、きしめんではざるきしめんを、そして「志の田」を冠するかけきしめんを提供されています。メニューにこだわりを感じるお店での一食でした。

ごちそうさまでした。


「東海道 名所記」

さて、名古屋名物とされる「きしめん」にはどのような歴史があるのでしょうか?

そう疑問に思いましたので、 関連があるとされている文書を調べてみました。

 

まずは浅井了意「東海道 名所記」を見てみます。

江戸時代になってから40年ほど経った1659(万治2)年に出版された書物で、 四巻「ごゆより庄野まで」にある次の一文が知られています。

『伊も川 うどんそば切あり道中第一乃塩梅よき所也』

 

ただこの一文なのですが、次のような内容で構成されています。

  • 伊も川という場所のうどんそば切屋で食べることができた事実。
  • 道中でもっとも塩梅が良かったという感想。

全体として江戸・日本橋から大坂を結ぶ旧東海道沿いの様子を紹介する旅行ガイドのようなものとなっており、注目したい一文は地鯉鮒宿から庄野宿までについて記載した一節にあります。

そのため現在の愛知県知立市・刈谷市付近の旧東海道沿いであることは外れ得ないことがわかります。

 

とは言え、挿絵も見られず、依然として次の肝心な点も不明瞭です。

  • もっとも肝心な平うどんが提供された事実があるのかどうか。
  • 塩梅が良かった、その対象はうどんなのか。

つまり、平打ちのうどんについて明確に触れた記載はみられない、という結論です。

「好色一代男」

次! 井原西鶴「好色一代男」を見てみます。

江戸時代になってから70年ほど経った1682(天和2)年に出版された、全編として、好色な一人の男が見境なく女性と関係を持ちつつ気ままに放浪し、果ては行方不明となるフィクションとなっています。

 

その二巻「十八歳」の記載には次のような内容が見られます(付録参照)。

  • フィクションの舞台は芋川という里。
  • 当地の名物と言って「ひら饂飩」を扱った。

まずこれはフィクションであって、著者が当地を訪ね、各地の文化を正確に描写しているかは謎です。また記載された文章は文節を書き連ねるように書いたもので、物事が明確ではありません。

しかしながら平打ちのうどんという存在が識別されている事実があります。

 

整理すると、井原西鶴のころには、平打ちのうどんが認識されていたことを確認できた、ということになります。

「用捨箱」

 もう1点、柳亭種彦「用捨箱」見てみましょう。

江戸時代になってから220年ほど経った1841(天保12)年の 書物です。

下巻 十五「温飩の看板」というこだわりの記載があり、風俗習慣などを考証した随筆です。

先の2点から160~180年ほど後の時代に書かれ、「東海道 名所記」「好色一代男」を引用して考証し、ひもかわについて次のようなことを記載しています。

  • 「東海道 名所記」「好色一代男」にはうどんに関する記載があり、今(井戸時代後期)、平温飩をひもかわと呼んでいるのは芋川の間違いである。
    形が似ていることをいうならば革紐というべきであって紐革というべきではない。
  • 古くからひもかわと間違われている。
    「誰袖の海」にも芋川のことがあり、 延宝7(1679)年壷瓢軒調和編「富士石」では歌が見られる。

整理すると次のような推定となっています。

  • ひもかわ温飩と呼んでいるものは芋川温飩の誤りである、とする意見を述べている。
    その根拠は、フィクションである「好色一代男」のひら温飩の認識と、それ以前のノンフィクションである東海道名所記の「伊も川」の記載が見られることとする。 

先に述べたように「東海道 名所記」は「伊も川」でひら温飩が作られていたことを確認できない資料ですし、後に続く「好色一代男」もあくまでフィクションです。これを裏付けるものとして、柳亭種彦が芋川でひら温飩を食べたり、いきさつを確認した事実の記載は見られず、書物と伝聞を突き合せた限りでの考察となっています。 

 

今日のまとめ

というわけで、本日時点での調査結果を以下のようにまとめたいと思います。

  • 芋川でひら温飩が提供されていた事実は確認できない。
  • 1700年以前の文献では「きしめん」の存在を確認できない。(2017.10.14修整)
  • ただし芋川を巡り、平打ちのうどんに関するフィクションと、江戸時代においての考察と意見は見られる。

最後に、伊も川もしくは芋川という場所については、東海道の宿場と宿場の間にある立場だったという話も見られ、宿村大概帳なども機会があれば確認してみたいと思います。

 

引き続き、文献を追ってみたいと思います。


■付録.きしめんに関するとして取り上げられている情報1・芋川温飩(ひもかわ)

●芋川温飩の用語

  • 玉泉堂版 (不明).「諸國名物往來」の記載 「芋川温飩」 ※享保12(1727)年 求版で確認

●浅井了意 (1659, 万治2). 「東海道 名所記」 4,  17 ごゆよりしやう野まで (ごゆより庄野まで)

  • 『伊も川 うどんそば切あり道中第一乃塩梅よき所也』

●壷瓢軒調和 編 (1679, 延宝7). 「冨士石」 4巻 春、夏 春氷

  • 『ひ本可者温飩捨水碎く氷可奈 調川子』

変体仮名をひらがなに置き換えた文章を以下に記載します。
『ひほかは温飩捨水碎く氷かな 調川子』

●井原西鶴 (1682, 天和2) 「好色一代男」2, 十八歳

  • 芋川いもかわといふ里に、若松わかまつ昔乃、馴染みなじみありて。人乃すみ阿らしたる笹葺ささふきをつゞりて、所乃名物めいぶつとて、ひら饂飩うんどん手馴てなれて。往來ゆききこまとめて、そでうちはらふゆきかと、見ればなどとうたひかけて、火をたく片手かたてにもじめ乃いとをはなさ次゛、うかうかとおとろひ、のちはふたり乃女も、花園山はなぞのやま乃、志も里に、まことのかみそりて世にすてられ、たのしみし人にすてられ道心だうしんとぞなれる』
  • 挿絵に次の内容がある。
    - 「若松屋」の暖簾、「いも川うむどん」の看板を掲げた、屋根がある建物。
    - 三味線のような楽器を弾いて二人の女と唄い、路行く馬に乗った人の気を引いている様子。
    -  いくつかの道具。

●遠近道印著 菱川師宣画 (1690, 元禄3) 「東海道分間絵図」 ,

  • 芋川の場所を明示した図がある。

●磯貝舟也 作, 石川流宣 絵 (1691, 元禄4). 「日本鹿子」 ,

(参河国)「同国中名物出書之部」の項

  • 『芋川ウドン 道中一番ノ名物也』

「池鯉鮒より鳴海へ二里半十二丁」の項

  • 『芋川と云処うどんそば切の名物之』

(尾張国)「同国中名物出書之部」の項

  • 『いも川と云ところうどんそば切遠うる茶やあり』

●菊本賀保 (1697, 元禄10). 「国花万葉記」

  • 「三河ノ内 ち里ふから 尾張鳴海 二里参十三町」で列挙される土地の一つとして次の記載がある。
    芋川此所道中うどんそ者切の名物也
  • 「参河國中名物之部」に列挙される名物の一つとして次の記載がある。
    芋川温飩イモカハウトン
    道中一番乃うとん乃名物也海道尓してハ志かりいま多繁花の地ニ出る麺類ニ不過

●喜多村信節 (1830, 天保1).  「嬉遊笑覧」下, 巻十上,

  • 『【料理物語】うどん胡椒梅とあり昔は温飩を専らにして蕎麦はかたはらなり近時までもそばやをうどん屋と稱へしなり又今ひもかはうどんと云は平うどんなり是は【東海道名所記】鳴海のあたりに伊も川うどんそば切と見え【一代男艸子】に二川と云所云々芋川といふ里に名物ひらうどんといふことあり然らばひも皮は芋川なるべし』

●渡辺政香 (1836, 天保7). 「三河志」 ,  産物

三河国設楽郡の章に以下の産物の記載があります。

  • 芋川温飩イモカハウントン
    道中一番うとんの名物也海道尓してハ志かりいま多繁花の地尓いつる麺類尓わ不及

変体仮名を除去して一部の漢字を修整した文章を以下に記載します。

  • 芋川温飩(いもかわうんとん)
    道中一番うどんの名物也。海道にしてはしかり、いまだ繁花の地にいづる麺類には及ばず。
    ※海道→東海道

●柳亭種彦 (1841 天保12年). 「用捨箱」 , 十五 温飩の看板

昔ハ温飩うんどんおこなはれて。温飩うんどんのかたはらに蕎麦そばきりをうり。今ハ蕎麦そばきりとさかんになりてそのかたわら温飩うどんうる。けんどん屋といふハ寛文中より阿れども蕎麦屋といふハ近く享保の頃までもなしことごとく温飩屋うんどんやにて看板かんばんがく阿るひハ櫛形くしがた志たるにいたほそくきりたる紙をつけたるをいだしゝが今江戸にハたえたり。寛政の初までハ干温飩ほしうどんの看板にかの櫛形くしがたいたあおき紙にてへりゐどをとりたるを。のきかけたるがたまゝ阿りし(■)

      [桃の實] 元禄六年

       ぶつかまねくか温飩うどん屋の志で    撰者 冗峰

       吉原はわざともほどく 茶筅髪ちゃせんかみ  嵐雪

と阿れバ吉原の温飩屋にも此看板かんばんの阿りしなるべし又按るに[一代男]二の巻に前にうつしたる画にのせたるくだり。二川といふ所に旅寝たびねして云云阿りて「芋川といふさと若松わかまつ昔の馴染なじみ阿りて人のすみ阿らしたる笹葺ささぶきをつゞ里所の名物めいぶつひら温飩を手馴てなれて」といふ事見え。此冊子さっしより前[東海道名所記]万治元年作四ノ巻にも地鯉鮒ちりふより鳴海なるみまで云云の条に「伊も川。うどんそば切阿り道中第一の鹽梅あんばいよき所なり」と阿れば今平温飩ひらうどんをひもかはといふハいも川のあやま里なるべし、其さまのたるをいはゞ革紐かわひもとこそいはめ。紐革ひもかわとはいふべからず。されどひもかはと阿やまりしも又ふるし。[誰袖の海]にも芋川の事阿り

       [富士石] 延宝七

        ひもかは温飩すてくだこおりかな 調川

だい春氷はるのこおりなり。當時このころはやくひもかはといへり。今も諸國志よこくの海道にはかの志でめきたる看板かんばん阿りとぞ。又温飩うどんを祢里て※のさざるほどのかたちにせたるなるべし。鏡餅かがみもちさま志たる物をざいのせたる看板田舍いなかにハ、阿里ときけ

※尉にれっか。 のす=伸ばす。

※祢里て=練りて。

●市川光彦 (1972, 昭和47 ). 「三河国芋川考」 (名古屋大学「国語文学」 31)

  •  多岐の文書に渡る確認と、考察、推論が記載されている。

● 歴史を学ぶ会「椎」 (1996, 平成8). 「刈谷の地名」 133, 171-172.

「大字 一ツ木」の「芋川」の項で、地名の由来と遺跡について触れられる中で次の2文がある。

  • 『名物「芋川うどん」は一ツ木の芋川に住む人が、旧東海道沿いに出て、茶屋を営んだのが始まりという。この茶屋の屋号が新開地の茶屋部落の通称になったのであろう。』

「今岡」の「日向」の項に次の記載がある。

  • 東海道沿いに、「いもかわうどん発祥の地」がある。東海道中の紀行文に出てくる「いもかわうどん」は平うどんで、紐のようであるので東京あたりでは「ひもかわうどん」と呼んでいる。『東海道中膝栗毛』に次のように記されている。
     今岡村のたてばにいたる。此ところはいもかわと云めんるいの名物、いたって風味よしとききて、
      めいぶつの しるしなりけり 往来の 客をもつなく いもかはの蕎麦

■付録.きしめんに関するとして取り上げられている情報2・きしめん

●きしめんの用語

  • 素眼 (1364-1367, 貞治3-6ごろ).「新札往来」の記載 「基子麺」
    ※(同文館 (1910-1911). 「日本教育文庫 教科書篇」確認による)
  • 一条 兼良 (1402-1481ごろ).「尺素往来」の記載 「メン
  • 東麓破衲著 (1444, 文安1). 「下学集」 , 飲食の記載 「基子麺キシメン
  • 平井易林 (1597, 慶長2). 「易林本 節用集」 (幾) 食服の記載 「棊子麺キシメン」 ※棊は其とホで表す
  • 山屋治右衛門 (1649, 慶安2). 「庭訓往来」 , 十月三日の記載 「碁子麺」
  • [著者不詳] (室町末期-江戸初期). 「庭訓往来妙」 十月三日の記載 「碁子麺」
  • [著者不詳] (室町後期).「新撰類聚往来」十三 其羹名者付煎点の記載 「基子麺キシメン
  • [著者不詳] (1815, 文化12). 「庭訓往来大貫道」 十月三日の記載 「碁子麺」
  • 伊勢貞丈 (1827, 文政10). 「庭訓往来 諸妙大成扶翼」の記載 「棊子麺キシメン」 ※棊は其とホで表す

  • 「名產諸色往來」の記載 「碁子麺」
    ※(同文館 (1910-1911). 「日本教育文庫 教科書篇」確認による)

●伊勢平蔵貞丈 (1763, 宝暦13). 「貞丈雑記」 六之下

  • 『 一朝夕の飯の間にうんどん又は餅などを食ふをいにしへは點心と云ひ今は中食又はむねやすめなどゝいふ』
  • 『 一うんどんまんぢうの汁に入るゝ山椒のこ胡桝の粉などを古は粉と云ひしなり今は薬味とも加薬とも云ふ又昔はかう(香)とも云ひしなり』
  • 『一饂飩又温飩とも云う小麦の粉にて團子の如く作るなり中にはあんを入れて煮たる物也混沌と云うふはぐるぐるとめぐりて何方にも端のなき事を云ふ詞なり丸めたる形くるくるとして端なき故混沌といふ詞を以て名付けたるなり食物なる故偏の三水を改めて食偏に文字を書くなりあつく煮て食する故温の字を付けて温飩とも云ふなり是もそうめんなどの如くにふち高の折敷に入湯を入れてその折敷をくみ重ねて出だすなり汁丼に粉酷さい杯をそへて出だす事さうめんまんぢうなどの如し今の世に温どんと云ふ物は切麺なり古のうんどんにはあらず(切むぎ尺素往来にみえたり)』
  • 『 一碁子麺と云ハ小麦の粉を水尓てこ年て薄くのし飛らめ置て竹の筒の切口を内の方能肉を削里皮の方を薄刃の如くして其筒尓て押し切連ハ碁石の如く尓切る也大さ碁石のことし夫をゆでゝい里豆の粉を衣尓懸る也』

●伊勢平蔵貞丈 (1775, 安永3). 「庭訓往来 諸抄大成扶翼」

読みやすさを考慮し、ここではカタカナで記載されている原文をひらがなで表記しています。

  • 『棊子麺 貞丈云棊子はこいし也小麦粉を水にて固く子りて板の上にて薄く伸し平めて細き竹筒の切口の内の肉を削り去り皮の方をうすくなるやうに刃の如くして其筒にて右の伸したる麺を押し切れは棊石の如くに切ると也それを煮て煎豆の粉を衣に掛るなり今も薩州なとには其製あり是歟』

●博望子 (1819, 文政2). 「料理山海郷」 4,  元版は1750(寛延3)。

  • きし麺
    『うどんのこ塩なしにこ年つ子能ごとくふミてうすく打者ゞ五分ほどの短冊たんざくにきり汁にてかげんするなり打粉多くつかへば汁祢ばる打粉寸く奈くして汁多く仕懸るがよし汁酒志やうゆをく王へ少しあまく仕懸る花可つを大がきにして入へし温飩うどんを打込煮上て置祢ぎ二寸斗に切たくさん尓入煮て後右のうどんを入てもちゆ鰹毛ミこ見打多るも於毛しろき那り』

変体仮名をひらがなに置き換え、一部の漢字を修整した文章を以下に記載します。

  • きし麺
    『うどんのこ塩なしにこね常のごとくふみて薄く打はば五分ほどの短冊にきり汁にてかげんするなり打粉多くつかへば汁ねばる打粉少なくして汁多く仕懸るがよし汁酒しやうゆをくわへ少しあまく仕懸る花かつお大がきにして入へし温飩を打込煮上て置ねぎ二寸ばかりに切たくさんに入煮て後右(※)のうどんを入てもちゆ鰹もみこみ打たるもおもしろきなり』
    ※前記のうどん

●喜田川守貞 (1837~1853, 天保8~嘉永6).「守貞漫稿」5, 36-39. 生業

守貞漫稿では当時の文化を伝える文章と挿絵が多量にあり、巻五と巻六にうどんとそばに関する記載があります。そのうちのきしめんに関わる一部を以下に記載します。なお読みやすさを考慮し、ここではカタカナで記載されている原文をひらがなで表記しています。

  • 『古は三都及諸國共に温飩屋の看板に右(※)の形を用ふ今世三都は不用之といへ共他国には用之東海道諸駅には今も此形を用ひ二八と大書し左右にそばうどんと細書する等多し
    又いも川と云は昔の温飩の名物の地名歟或は温飩に名ある家名なるべし古図に書之もの往々有之因云今世江戸にて平打の温飩をひもかはと号く革製の紐に似たる故といへ共切革紐ならば革紐と云べき也ひもかはと云は芋川の傳訛ならん又因に云今江戸にてひもかはと云平打うどんを尾の名古屋にてはきしめんと云也
    今世江戸の蕎麦屋大略毎町一戸あり不繁昌の地にても四十五町一戸也』
     ※原典の文章の右にある図を指している。

●神宮司庁 (1914, 大正3). 「古事類苑」飲食部

用語集となっており、その用語について触れている過去の文献を引用、列挙している。

「平饂飩」と「碁子麺」の項から引用されている文献をここに書き留める。

 

平饂飩の項

  • 用捨箱 下 温飩の看板
  • 好色一代男 ニ 旅の出来心

碁子麺

  • 下学集 下 飲食 ※かがくしゅう 東麓破衲著 1444(文安元年)年
  • 撮壌集 下 飲食 ※さつじょうしゅう 飯尾永祥著 序の記載が1454(享徳3)年
  • 易林本節用集 (幾) 食服 ※えきりんぼんせつようしゅう 平井易林 1597(慶長2)年
  • 庭訓往来 點心者 ※南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされる
  • 庭訓往来 諸妙大成扶翼
  • 斎民要術 九 餅法 ※中国北魏の賈思勰(かしきょう)著 532~549年頃成立
  • 居家必用 十三 飲食 ※居家必要事類全集?
  • 料理山海郷 ※りょうりさんかいきょう 博望子 1819(文政2)年

■付録.旧東海道について取り上げられている情報

●江戸幕府 (1843, 天保14 - 1859, 安政6). 「東海道宿村大概帳」七, 「知鯉鮒宿」

 確認は児玉幸多 校訂 (1970, 昭和45). 「近代交通資料集 東海道宿村大概帳」 四による。

  • 一、此宿から鳴海宿迄之間壱里塚三ケ所
       壱ケ所          木立松
        但、左之塚は一ツ木村地内 右之塚は泉田村地内
       壱ケ所          木立榎
        但、左右之塚共東阿野村地内
       壱ケ所          右同断
        但、左右之塚共有松村地内
  • 一、此宿より鳴海宿迄之間立場弐ケ所
    五軒屋新田地内字前後
      但 知鯉鮒宿へ壱里弐拾町 鳴海宿へ壱里拾町
    鳴海宿地内字平部町
      但 知鯉鮒宿へ弐里弐拾町 鳴海宿へ拾町

●刈谷市誌編さん委員会 (1960, 昭和35). 「刈谷市誌」

  • 刈谷市についての歴史などの記載がある。

参考Web


編集履歴

  • 2017.10.14 「付録. きしめんに関するとして取り上げられている情報」を閲覧した資料にあわせて全体を改めました。
    - 芋川温飩ときしめんを情報1、情報2として分離。
    - 「嬉遊笑覧」「三河志」「古事類苑」を追加。
  • 2017.10.14 「きしめんの用語」に「新撰類聚往来」を追加。
  • 2017.10.22 「冨士石」「貞丈雑記」「庭訓往来 諸抄大成扶翼」「料理山海郷」「守貞漫稿」を追加。
  • 2017.10.22「芋川温飩の用語」を追加、「きしめんの用語」に「名產諸色往來」を追加。
  • 2017.10.30「芋川温飩の用語」に「東海道分間絵図」「国花万葉記」「三河国芋川考」を追加。
  • 2017.10.30「旧東海道について取り上げられている情報」を追加。