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稲庭うどん - 宗八(閉店)

生そうめんをきっかけに素麺の手延べの製造工程を知り、手延べうどんは美味しいのだろうかと調べてたどり着いたのが稲庭うどん。

 

まずはいただいてみよう、と訪ねたのが大阪 日本橋・稲庭うどん 宗八さん(閉店されました)。

 

外観は長屋の一軒で、白壁に木板の板張りがされた壁に、木の引き戸に暖簾が掛けられ、和食店らしい雰囲気があります。

内観は白壁と板張りの壁面で、丸みのある木製のテーブルと椅子が配されるなど全体的に木製品の色が多く目に留まり、温かい雰囲気を感じさせます。

壁にはサインがされた色紙が目立ち、その中にメニューが紛れています。

 

うどんのメニューは「釜あげ」と「ざるうどん」の2種。

その横に大・小のお値段が記載されているのみで、極めてシンプルです。

つまり大阪では「温かいのん」「冷たいのん」のいずれかを「大」「小」で注文する、ということになります。

 

「冷たいのん・大」でいただいてみたのがこちら。

つけつゆはお出汁を感じる味わいで。

薬味にはゴマと、潤いがあるネギ、ショウガのすりおろしと揚げ玉。

オールスターの勢ぞろいが嬉しいですね。

 

注文からゆで立てで提供されました。

麺は白く平たいものとなっており、透明感があります。
そして口あたりは滑らかで、つるりとしたのど越しです。

 

手延べの麺ならでは特徴が感じられますね。

 

ただし、2014年6月には閉店され、今はなきお店となっています。

ごちそうさまでした。


ところで、お店の片隅には「稲庭絹女饂飩」と書かれた箱が置かれていました。

"絹女うどん"は”稲庭うどん”の商品名の一つで、表1のような製造者と商品名の関係があるようです。

 

次に、稲庭うどんの製法を見てみます。

各製造者に説明されている内容はおよそ次のようなものです(佐藤養助公式ページによる)。

  • 1日目に練りと熟成を小巻で繰り返す。
  • 2日目に棒に手綯いし木箱で熟成させ、潰してからけたにかけて熟成しつつ伸ばす。
  • 3日目に乾燥、裁断し、選別する。
  • 4日目に検査して出荷する。

まず、典型的な手延べの工程がとられており、熟成させて引き伸ばす作り方によって、口あたりの滑らかさやのど越しのつるりとした食感が作られていることがわかります。

 

 

またやはり、平らにする”潰し”があることが稲庭うどんの特徴を感じるところですね。

平たい形によって口の中で噛むことから風味が感じられようになっています。

 

そして、素麺と比べた場合、麺の結着を防ぐために熟成の段階で生地に食用油を塗りますが、稲庭うどんでは油は使用せず打ち粉が使用されるようです。そのため素麺では麺の風味にゴマ油だったり椿油だったりと産地によって異なる油が影響しますが、稲庭うどんでは打ち粉に使うデンプンなどが影響する違いがあります。

 

ところで、歴史があるといわれる、稲庭うどんです。

調べてみた内容を付録に記載します。

乾麺に仕上げることで、1年、2年と長期間の保存が可能な優れた保存食にもなっており、そして原産地を離れても食べることができるのは、昔ながらの食文化にして素晴らしいところですね。 

 

最後に。

このようにして、麺を味わうことができるうどんが作られていることがわかりました。 

稲庭うどんをいただくときはまた麺の美味しさを味わってみたいと思います。


■表1.稲庭うどんの商品名一覧(2017.9.17 独自調べ)

製造者 商品
稲庭吉左衛門 稲庭干饂飩
老舗三嶋屋 献上稲庭饂飩
有限会社佐藤養助商店

稲庭干饂飩

株式会社後文

稲庭手造り饂飩, 稲庭うどん,

稲庭煮込みうどん, 稲庭冬うどん, 稲庭手造り華饂飩

有限会社稲庭古来堂 稲庭古来うどん
有限会社稲庭宝泉堂 稲庭寶来うどん
稲庭手延製麺株式会社 稲庭手延べうどん, 延寿庵 稲庭つるつる饂飩
株式会社稲庭うどん小川 稲庭饂飩, 稲庭半生饂飩
株式会社無限堂 稲庭うどん, 稲庭饂飩, 古式稲庭饂飩寿一
有限会社佐藤長太郎本舗 稲庭御用饂飩, いなにわ御用うどん
稲庭吟祥堂本舗 稲庭うどん
稲庭うどん渓水 稲庭うどん 渓水
有限会社佐藤養悦本舗 稲庭干饂飩
有限会社稲庭絹女うどん 稲庭絹女饂飩
稲庭古城堂

稲庭古城うどん, 古式手延 稲庭うどん, 稲庭うどん,

稲庭生うどん, 稲庭生饂飩, 稲庭半生うどん

株式会社稲庭古峯堂 稲庭手よりうどん
株式会社寛文五年堂 いなにわ手綯うどん
稲庭鶴千堂 稲庭鶴千饂飩
   

林泉堂株式会社

稲庭本生うどん
株式会社京家 稲庭饂飩, 稲庭手揉饂飩
稲庭うどん製造所しゅんぞう堂 手打稲庭うどん
有限会社高橋製麺本舗 稲庭まぼろしうどん
有限会社熊谷麺業 稲庭城下うどん
有限会社阿部惣左ェ門饂飩本舗 稲庭うどん, いなにわ饂飩, いなにわ惣左ェ門饂飩
有限会社稲庭屋 いなにわうどん
雪の出羽路茶屋 稲庭手打うどん
栗駒堂 稲庭うどん, 稲庭よもぎうどん

■付録.稲庭うどんに関する情報

 菅江真澄(すがえますみ) (1814 文化11) .「増補 雪の出羽路 雄勝郡 二」 稲庭ノ郷 中町驛 稲庭本郷

  • 『名産御用乾饂飩としるしたる屋戸あり、御主を佐藤吉左衛門といふ。此家にてこの干饂飩索制始め(ないそめ)しは元文(1736年~)のはじめ、佐藤氏五代目の吉左衛門が由里ノ郡本庄に至りこれをでこれを糾(なら)い治て稲庭に帰り、とし月を経るまま心に切て(まかせて)索けるほどに、今はただふかたなう其名聞えたり。其頃本庄の師なりける干饂飩師も訪来て、おのが弟子ながら是を傳へならへどはかばかしからざりしよし。もとも小麦は三梨村の土毛にて、此小麦もまた世にまれなる麦といへり、さりければ麦により水により家によりて名品とはなりぬ諸国にも出羽ノ仙北雄勝ノ郡の稲庭饂飩と人知れり。百千鳥といふ秋田前句の百句選の中の題、「名代に成つて今は能イ家部」てふ事に、「どなたでもいなにはあらぬ此饂飩」と付たり、八千八百吟の七番たり。』
    引用元:秋田叢書刊行会 (1928 昭和3). 「秋田叢書」 3, 138-139.

佐藤清司 (1904 明治37).「稲庭古今事蹟誌」(いなにわここんじせきし) (※1)

  • 稲庭干饂飩の製造は小沢の佐藤市兵衛家に始まる。佐藤市兵衛は干饂飩、白髪素麺、粟素麺などなどのめん類を作り、比類なき上品と知られ、元禄3(1690)年に久保田藩の御用を賜った。跡を継いだ子孫の長太郎は廃業した。同時期に佐藤吉左衛門(現 稲庭吉左衛門)が干饂飩製造を創業し、干温飩、素麺を作った。その後、明治までに佐藤平助、小野寺平五郎、岩川嘉助、佐藤養助の同業者が出て、佐藤吉左衛門と佐藤養助が著名となった。
  • 佐藤吉左衛門は年々改良を加えた。宝暦2(1752)年に久保田藩の御用を賜り、御用干温飩所の看板を掲げ、稲庭うどんといえば吉左衛門と知られるようになり、天保年間に商売が広がった。
    また長八尺(264cmほど)のうどんを久保田藩主に献納したこともある。文政11(1828)年には印章拝領、干饂飩の偽物が多く出たこともあり、文政13(1830)年には稲庭うどんを売る際に、包み紙、箱書きに稲庭誰製と名前を明らかにすることになって、明治4(1871)年まで上納された。この頃には吉左衛門の製品が最良とされていた。
  • 佐藤平助は弘化年間に干温飩、素麺の製造を始めて盛んに売り出したが明治には廃業している。
    その後、佐藤平助の方である岩川嘉助が明治21(1888)年7月より製造している。
  • 小野寺平五郎は明治17(1884)年6月4日、品評会で褒状を受けたりしたが、明治36(1903)年9月に廃業した。
  • 佐藤養助が干温飩、麺類の製造業の届け出をしたのは明治9(1876)年。
    もともと(※2)は珍客をもてなすときに作るばかりだったが広く売ることとなった。
    製造方法は一家伝来の秘方。長さ1丈5寸(およそ3m15cm)に作って献納したことがある。
    また品評会等での数々の受賞歴がある。
  • 年間6万把、金額で1080円。主に東京と近県に販売。
    稲庭吉左衛門、佐藤佐助、岩川嘉助等の製造は一定しない。

※1 秋田県雄勝郡稲川町教育委員会 (1971 昭和46). 「稲川町史 資料編」 7,  60-62での確認による。

※2 創業したとされる1860年当初。

秋田県広報協会  (1966 昭和41).「あきた」44, 60. 

  • 『明治の末頃までは五軒もあうたのに、いまではわずかに稲庭吉左衛門さん、佐藤養助さんの二軒しかないのはさびしい。 』

稲川町教育委員会  (1984 昭和59). 「稲川町史」 272-274, 495-496.

  • 第四章 第三節「村の産業と商業」「商業」「うどん」 pp.272-274.
    佐藤清司 (1904 明治37).「稲庭古今事蹟誌」(いなにわここんじせきし) を引用しつつ、次の記載相違を持つ。
    - 稲庭干温飩の製造が佐藤市兵衛であることを「言われている」との明確な伝聞で記載している。
    - 市兵衛家の御用を示す版木が栄介家に残っていることとその写真の掲載。
    - 佐藤吉左衛門が掲げた看板は「御用干温飩所」ではなく「御用饂飩所」とした。恐らく誤記。
  • 第五章「明治・大正・昭和の稲川」 第三節「戦後の村から稲川町へ」「稲庭うどん」pp.495-496.
    特に引用することなく次のようなことが書かれている。
    稲庭うどんは寛文5(1665)年、小沢の佐藤市兵衛が始めたが、子孫は廃業したため、佐藤吉左衛門(現 稲庭吉左衛門)らがその技術を引き継ぐとともに改良につとめ、御用達となってきた後も、博覧会等で褒状を受け、現在にその技法を伝えている。
    現在の稲庭うどんは輸入小麦を原材料に用いるが、昔は三梨宮田で良質の小麦がとれ、原料にしていたといわれる。
    明治、大正を経て昭和20(1945)年ごろまでは稲庭うどんといえば佐藤吉左衛門と佐藤養助の2軒で、手作りのため値段が高く、なかなか一般の人の口に入らなかった。さらには戦中戦後の食糧事情が悪いときは原料の小麦粉を入手できないため休業状態だったが、戦後の昭和43(1968)年ごろから創業する人が出始めた。会社組織で製造する人もあり、昭和58(1983)年にはうどん工場が16、従業員がおよそ300名だった役場の記録があり、総売上が7億円以上になるだろうといわれている。また製造業者の販売先は、それぞれの事業者が国内に販路を求める場合と、稲庭うどん販売会社に納入する業者もある。

※小沢(こざわ)は久保田藩の稲庭村小沢集落(現:秋田県湯沢市稲庭町字小沢)。

無明舎出版 編 (2000 平成12). 「稲庭うどん物語」28-48.

  • 古い書付けがたくさん残っていること。
  • 原材料の小麦粉に三梨村の小麦を使っていたこと。
  • 製造方法や用いた器具について明記があること。
  • 干温飩を珍客のもてなしで出したり、病人食に良いと考えていたこと。
  • 干温飩以外の製麺とその工夫についても記載していること。
  • 明治の売上高の実績があること。
  • 宮内省御用となったのは3代目佐藤養助氏の先祖調べと遠い親族との交流が関係したこと。
    また宮内省への献上に関わる詳細な記録があり、残っている書状もあること。
  • 稲庭吉左衛門氏の4男が養子となって2代目佐藤養助を名乗り、1860(万永元)年に創業したこと。当初はお客さんをもてなす程度だった。
  • 2代目佐藤養助氏は稲庭吉左衛門氏から一子相伝の稲庭うどんの製造方法を伝授された。
    一子相伝を変えて伝授したのは、何かがあって製造法が断絶することを心配したからと伝えられていること。
  • 本格的な営業は明治9(1876)年から。数々の品評会へ出品し、褒状を受けたこと。

 佐藤長太郎家に伝わる御用版木

  • 「蕎麦麺」(そばめん)、「かたくり麺」、「粟索麺」(あわそうめん)、「干温飩」(ほしうどん)、「蕎麦麺」(表面)と「百合麺」(ゆりめん)(裏面)を御用で納めたこと。 
  • 参考:湯沢市役所 稲庭うどん御用版木 概要 

稲庭吉左衛門家に伝わる看板

  • 看板 「御用 干温飩処」

その他の情報1

  •  菅江真澄(すがえますみ) (1814 文化11). 「増補 雪の出羽路 雄勝郡 三」 稲庭ノ郷 小澤村 稲庭
    『御用 粟索麺 又小豆索麺、百合麺、かたくりをもても索麺を索(な)ふやどあり佐藤長太郎といふ。』
    → 素麺についての記載。佐藤市兵衛氏の子孫長太郎家に伝わる御用版木とある程度の一致が見られる。
    引用元:秋田叢書刊行会 (1928 昭和3) .「秋田叢書」 3, 152.

 

その他の情報2・文章記載が見られるもの

  • 文政12(1829)年、久保田藩江戸家老疋田松塘の御朱印を受ける。以後、稲庭吉左衛門以外に稲庭干饂飩の名称の使用が禁じられる。
  • 昭和47(1972)年、7代目佐藤養助が製法の公開を開始。家業から産業への発展を目指し、一子相伝の秘法を家人以外の職人も受け入れ、伝える。
  • (佐藤家に)「双方の家系の中にて相伝うべきこと」の遺言があった。
  • 佐藤市兵衛家の子孫が廃業したので、佐藤吉左衛門が干温飩製造業を興した。 

編集履歴

  • 2017.9.23 「付録. 稲庭うどんに関する情報」を閲覧した資料にあわせて全体を改めました。
  • 2017.10.1 「付録. 稲庭うどんに関する情報」を閲覧した資料にあわせて「稲庭古今事蹟誌」と「稲庭うどん物語」を追加、「稲庭町史」の内容を引用元の「稲庭古今事蹟誌」へ移動。その他の情報記載を修正しました。