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けんどんの歴史(5)

前回に引き続き、けんどん屋の歴史・第5回をお届けします。

今回は、1800年代の史料・後編として「玉川砂利」「嬉遊笑覧」「武江年表」を確認していきます。 

 

今回のポイントはこちら。

 ☑ 「嬉遊笑覧」「武江年表」は「還魂紙料」を引用していることがわかりました!

お急ぎの方は、まとめの回へどうぞ。


1800年代はけんどん屋さえ目撃せずに書いている

大田南畝 「玉川砂利」蕎麦の記 ~ 遅い元禄期説

1829(文化6)年 大田南畝 「玉川砂利」の「蕎麦の記」の項を、1908(明治41)年「蜀山人全集」巻3で確認してみました。

 

次のような内容が見られます。

むしそばなど値段についても触れられていますが、割愛します。

  • 江戸では、古くは元禄(1688~1704年)から浅草にのみ見頓そばがあった。

貞享期(1684~1688年)の「江戶鹿子」があり、明らかな誤りです。

 

「玉川砂利」は、けんどんそばの始まりは元禄の頃(1688~1704年)の浅草であるということを、他の史料よりも遥か後の1829年ごろに書きとめた、不確かな史料です。

 

喜多村信節「嬉遊笑覧」 ~ 寛文説を引用

◎多数の史料を引用し、"慳貪"のはじめについては寛文期で説明。

1830(天保1) 喜多村信節「嬉遊笑覧」を確認してみました。

 

まず、料理茶屋の項では次のような内容がみられます。

  • 江戸には昔は料理茶屋がなかった。
  • 寛文のころ、けんどんそば切ができて、それに倣って慳貪飯もでた。
  • 奈良茶は今のように一膳飯で、一椀づつと決まっているが、金龍山は良い料理をしたようでそれらの奈良茶やとは異なるか。 

続いて、蕎麦の項では「昔々物語」と、寛文8年ごろの流行ものの短歌に「八文もりのけんとんや」が見られることを示し、けんどんについて説明しています。

 

これらのことから、「昔々物語」によるけんどんの説明があり、寛文8年にあったとされる短歌を裏付けとして、「嬉遊笑覧」はけんどんのはじまりを寛文であるとしているようです。

 

さらに、慳貪の項では次のような内容が見られます。

  • けんどんは優しみのない意味であり、一椀づつ盛り、食べる人の心のままに(お代わりを)勧めたりしない。
  • 1杯6文かけねなし現金かけねなしと客引きするのが流行った。
  • 元はうどんを猶桶に入れていたが、のちに外へ持ち運ぶ膳を"けんどん箱"と呼ぶ箱に入れるようになり、やがて"けんどん"というようになって、その箱の蓋のようなものを"けんどんぶた"と呼ぶようになった。
  • 寛政の末までは箱に盛って売られていたが、今は絶えている。

料理茶屋と蕎麦の項の説明には、不思議にも次の点で「還魂紙料」との一致が見られます。

  • 寛文8年ごろの「八文もりのけんとんや」の短歌を裏付けに使っている。
  • "慳貪"の言葉の意味を、1杯づつ盛りお代わりを勧めないという組み立てで説明している。
  • 大名けんどんの箱が今もあり、好事の者が茶箱に用いるという説明をしている。
  • けんどん箱について粗末で靑貝を巻いたものもあるという組み立てで説明している。

1830年刊の「嬉遊笑覧」には本文中に1826年刊「還魂紙料」を引用している表示を見つけられず、自分の言葉として書かれているように見えます。

 

まとめます。

「嬉遊笑覧」は、「慳貪」の言葉の意味や、客引きの呼びかけの内容や、出前としてけんどん箱ができ、のちに箱を慳貪とも言ったとするなど、けんどんの始まりに関わることをさまざまな書物を引用し、1830年ごろに書いた史料です。

けんどんのはじまりについては「還魂紙料」の内容に従うものとなっています。

◎"見頓そば切"ならぬ"食見頓"・"慳貪飯"

ところで、少し慳貪から脱線してみます。

「嬉遊笑覧」の料理茶屋の項は1693(元禄6)年、井原西鶴「西鶴置土産」を次のような内容で引用しています。

  • 金龍山に奈良茶を出す、仕出し茶屋がある。
  • 器がきれいで、1人5分づつで、大衆にとっては勝手が良い。
  • 上方にはこのような自由はない。

「西鶴置土産」はフィクションですから、物の認識はともかく、書かれていることには事実でないことが含まれています。

また、1745(延享2)年起筆、柏崎具元「事蹟合考」から次のような内容を引用しています。

  • 明暦大火の後に、浅草の金龍山(待乳山)の門前茶屋が茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆等をセットにしたものを奈良茶と名付けて出した。
  • 江戸中から客が来てその珍しさを楽しんだ。
  • その後に美膳店ができ、いつしか衰えた奈良茶の山下に及ぶようになった。

そして「江戶鹿子」で"食見頓"とあることについて、奈良茶は今の一膳飯で一椀づつの決まりのもので、金龍山はその後よい料理をし、その奈良茶とは違っているようだと述べています。

 

もともとはみな"茶屋"という分類で、一盛づつの奈良茶屋は、今でいう丼物屋のような店で"食見頓"と呼ばれており、そこに金龍山の奈良茶屋が定食のスタイルでヒットを飛ばしますが、これもまた"食見頓"と呼ばれ、定食屋という言葉がなく区別されなかったようです。

 

斎藤月岑「武江年表」 ~ 他書の引用を年表で整理した

1850(嘉永3)年 斎藤月岑「武江年表」・正編を確認してみました。

次のような説明が見られます。

  • 寛文四年 甲辰 五月閏
    (略)〇けんどん蕎麦切始る、価八孔づゝと云ふ(略)
  • 『吉原にけんどん町あり、吉原南の通り也、紫一本にはけんどん河岸とあり、里俗の稱呼なるべし』 

前者は、値段について孔と書いており、1文銭の中央に空いている四角い孔を指して8つ、つまり8文と言っていると見れば高屋知久「還魂紙料」を参照しているように見え、「還魂紙料」が引用する財津種莢「昔々物語」の寛文説が反映されているものと考えられます。

 

後者は戸田茂睡「紫の一本」で"けんどん河岸"とある記載について、吉原特有の呼び方だと説明をつけています。

  

斎藤月岑「武江年表」では他書を引用しただけのものであり、"けんどん"について新しい事実は見られません。

 

次回はけんどん屋についてまとめたい

次回はこれまでに確認できた内容から、けんどん屋についてのまとめを書きたいと思います。